偏在するセンター、ふたたびモダニズムの始まりへ


展示作品を見て廻っていたら、以前読んだある記事を思い出した。
小説家の大江健三郎氏と原広司氏の対談だったと思う。たしか建築学会の出している『建築雑誌』に載っていた「風土」をテーマとした文章。15年程前だろうか。
風土というものは、ある特殊な気候や文化を持った地域で、ある特殊な人間・人間達が生み出したある特殊な状況であるのにも関わらず、なぜか多くの人間に共感される「普遍性」を持っている。それは、根本的に人間とは周囲の世界を抽象化して理解し、それを人工物として具体化していく存在であって、その事自体は誰にとっても同様な普遍的な事実であるからだ、という内容であったと記憶している。
世界と作者が直接関係することで抽象化され、理解されながら形作られた産物やその集積である風土は、同じく世界を抽象化し理解しながら生きていく本来的な人間の在り方を僕たちに思い出させてくれる。だから誰の胸にも響くつよく太い普遍性を持っているのだろう。
その意味からすると、一般的にはもっとも隔たった位置にある印象の「モダニズム建築」と「風土」が、不思議な事に、同一なものとして見えてくる。あらゆる因習やかつての様式に捕らわれる事なく、今日(こんにち)の世界を抽象化し理解する事で、最も合理的な建築を求めようとして、モダニズム建築は始まったからだ(現在の後期に属するモダニズム建築はすっかり様式化され変質してしまったが)。そのようにして打立てられた「始まりの頃のモダニズム建築」は、先の風土と同じく、世界とそれに対する人間の抽象化能力の記念碑であり、僕達の心にザワザワと共振を起こさせる。
優れた風土や初期のモダニズム建築は「世界に開け。そして抽象化せよ」とメッセージを共に発しているのである。そして僕はこの展覧会場で久しぶりにそのメッセージを受信したように感じ、15年も昔の記事の事を思い出したのだろう。
そう、会場内で見たいくつかのプロジェクトは確かに「世界に自らの足で立ち、自らの知性で抽象化する」事で生まれた、真の意味でのモダニズムの建築だった。ほとんどの作家やプロジェクトは「辺境」と呼んでも差し支えないような地理的な位置にありながら、それらは確かに、正しいモダニズムの「本流」を感じさせた。
wwwに代表される電子メディアのグローバルな発達は地球規模での擬似的なメタ意識体を生み出して、今回の展示で反転的に明らかにされたような既製文化(例えば世界的に共有された「様式化された後期モダニズム建築」)への「内向化/引きこもり化」をもたらしはしたが、また同時にメトロポリスという地理的なセンターと思想的なセンターが一致していなければならないという制約を取り払ってくれもした。辺境と呼ばれるような地域でもセンターである事が可能になったのであり、むしろ逆に、既製文化のフィルターを通さずに世界へ直接に接続する事が可能な辺境こそが、次代のセンターとしてのポテンシャルを最も高く有していることが、多くのドローウィングや模型を見るうちに実感されてきた。
2010年の終わりにセンターが裏返りはじめた事を感じる。センターはトポロジカルに偏在し、そこから真の意味でのモダニズム建築の本流が再び流れ出しはじめるのだ。
「GLOBAL ENDS - towards the beginning」はモダニズム建築を分岐させた記念すべき展覧会として、後年振り返られる事になるかもしれない。様式としてのモダニズム建築は終焉し、伝統建築様式の長い列の最後尾へと加えられる。そして、世界へ開きそれを抽象化する本来のモダニズムは再び始まりの大地に立っている。
これからが面白い時代である。


TOTOギャラリー・間25周年記念展 GLOBAL ENDS-towards the beginning 展覧会レポート