Mother's House / 母の家


動詞の建築
「建築」は「動詞」だと考えているところがある。
もちろん通常通り、それは「建築」という概念を指す「名詞」でもあるのだけれど、それだけでは「建て」「築く」という動詞性、つまり建築が本来もっている「行為」としての意味合いが抜け落ちてしまうようで、違和感があるのだ。
それは、デザインにおいても同じことで、「建て築かれた」構築物としての建築の現れや、それに伴う初源的な情動を、そのまま居住環境に残しておきたいと願っているので、組み上げられた構造体を仕上げの裏側に隠蔽してしまう「大壁」よりも、「建て築かれた」という事実がそのまま空間に現れ出る「真壁」とすることが多くなってしまう。そうすることで「建築」本来の「動詞性」を保持しようとしているのである。
この「母の家」もまた、「動詞の建築」である。6m×6mの正方形平面を、4組の唐松集成材による上り梁を面外方向の力に対して高率よく抵抗する「ラメラ状」に組み上げることで、無柱空間として成立させているが、それら主たる柱も梁も、真壁的にそのまま空間に現され、その構築的な「成り立ち」を率直に表明している。
また、ラメラ架構はその幾何学の性質状、方形屋根のように一点に収束せず、屋根頂部にはトップライトが生みだされ、ランプシェード状の天井形状(=架構形状)によって一日中穏やかな採光を確保すると共に、その煙突効果によって稠密住宅地においても快適で充分な自然換気を可能にしている。一方では、空間の「流動/滞留」の配分をも、この中心点に収束しない軸組が塩梅よく決定し、小さいながらもシークエンシャルかつ落ち着いた居住環境を実現させることにもなった。
今回は初めて、工務店を介さずに、直接大工の棟梁に発注する契約形態を取ったため、我々は半ば現場監督のような立場で、直に各職人と接し、深く関わることになった。このこともまた「建て築く」という建築の動詞性が、建築の結果に反映される良い契機になったようだ。いやむしろ、建築に「結果」など無かったのかもしれない。「建築を組み上げる」というダイナミズムは、隠蔽されることなく建築に表明されることで、自然に「生活」のダイナミズムを呼び込み、継ぎ目無く「行為」は連続してしまったからだ。その意味で「動詞の建築」には「完成」が無い。それは連綿と繋がっていく行為の連続体であり、「終わらない建築」なのである。


「住宅特集」2013年9月/新建築社


母の家
気がつけば「真壁」の建築ばかり設計している。構造を背後に隠した「大壁」の方が抽象的な空間を「表現」するには適しているのだろうけれど、なんだかそれでは建築の半分しか扱っていないようで、落ちつかない。
建築は「空間」であるのと同時に、構築された「存在」でもある。僕がデザインの対象として意識しているのは、よく「構成」された「空間」と、よく「構築」された「存在」の周囲に広がる「場所」の重なった状態、つまり統合的な「環境」なのだろう。
その意味で、「空間」を操作し、かつ、構造体という強い存在が現れ出る事で「場所」をも扱うことのできる「真壁」の手法は都合がよく、しばしば用いる訳である。
この原田麻魚の母の家もまた、「真壁」による建築である。120×550mmという大断面集成材からなる柱−梁4対をラメラ状に組み上げる事で、6m角の正方形平面を無柱で成立させている(それらの構造体は全て仕上げの表面から空間に凸上に「現れて」いる)。通常の方形屋根のように中心へと収束しない幾何学の性質上、中心部には通風と採光のためのトップライトが生まれ、また、構造に合わせて平面的にも少しずれた対角線が空間構成上の偏りを生み出し、居住に必要な「滞留」と「流動」の性格が環境に付与される事にもなっている。
存在の構築と空間の構成が、「真壁」という手法によって同時に解決される事で、単なるオブジェクトではなく、また、単なる「家」という記号でもない、字面通りの意味での「実家」となったように思っている。


「住宅特集」2013年9月/新建築社