Log H / 鉄のログハウス


鉄のログハウス
「大壁」よりも「真壁」に、さらにその先に興味がある。
構造体をその内側に隠したプレーンな面である「大壁」は空間の「ガワ(側)」を示すだけの存在に控える事でその「空間性」を際立たせるが、「真壁」は建築を成り立たせる構造を表面に突出させる事で、「ガワ」として空間を指示するだけでなく、よく構築された物質が周囲に放つ「場所性」を住環境に重ねる事ができるからだ。
そして「真壁」を超えて、さらに強い場所性を生み出すもう一つの壁のあり方として「ログハウス」がある。その名の通りログハウスの壁面は構造である「丸太材(=ログ)」だけで構成されていて、その強い物性が濃密な「場所性」を発生させる。「ガワ」としてのプレーンな面のないログ壁面は、純粋な「空間」だけを表す「大壁」の対極に位置する、純粋な「場所」を表明する存在なのかもしれない(その中間にあるのが「真壁」なのだろう)。
東京都内の極めて一般的な新造分譲宅地の一画にある敷地に、夫婦二人のための住宅をデザインするにあたって我々が選択したのは、この「ログハウス」の形式である。ただし、丸太材ではなく大規模ビル建設等に用いられる700(1000)×350×16×25(32)mmという大断面H型鋼によるスチール製のログハウスだ。その巨大な重量・強度に加えて、ロール圧延によって成形されるH型鋼の工業製品ならではの数学的整形性とRのかかった入り隅部に現れる優しさといったH型鋼の「物質的性質」をログハウス状に組み上げ強化・増幅する事で、無個性な新造住宅地に、そこに積極的に住みたいと思える「場所性」を与える事を試みたのである。
それは丸太材が集積する通常のログハウスの荒々しく素朴な場所性とは異なった、理知的でありながら優しく強い、新造の都市域にふさわしい場所性の種子である。僕達は土地の新たな「よりしろ」となる事を、この鉄製のログハウスに求めたのだ。


「住宅特集」 2014年9月/新建築社


「こわさない・こわされない」
日本では、社寺仏閣が建て替えられる際、そこで使用されていた柱や梁などの材料は「お下がり」として、他の建築物の材料として再利用されていく。社寺仏閣に限らず、この国の伝統的な木造建築では、材料は一世代の建築物で終わらずに、何世代もの建築物へと転用されリユースされていく。言い換えれば、材料は流通を続けるその一過程において、たまたま「ある建築の形」をとっているだけなのである。
その意味で、この伝統的な建築システムには廃材というものがない。限りなくゼロエミッションの理想に近い、破壊・廃棄という建築の原罪を解消する「未来の建築システム」だと言えるのではないか。
この伝統的な木造のシステムを、他の現代的な構造システムで展開できないかと考えた。今回は現代の主要な構造形式である鉄骨造を主題とした。通常、高層建築物で用いられるH型鋼(h700×w350)を校倉式に組み上げる事で、建築全体を構築している。ジョイントは簡易な高力ボルト接合なので、建設はもちろん解体まで、極めて少ない時間とエネルギーによって行う事が可能である。住居としての用途を終えた後は速やかに分解され、次の建築の一部として利用されていく。
伝統からの断絶を求めた近代以降、自然と建築は互いに「こわす・こわされる」という侵略闘争を続けてきた訳だけれど、そろそろ、その位相を越え出るべき時だろう。
「流転の中にある建築」、或は「終わらない建築」へ、向かおうと思う。


2013年 「16th DOMANI・明日展」出展テキスト


鉄の器
 「器(うつわ)」は、建築を学び始めた学生に対して、その「本質」について説明するとき、喩えに使われることの多いものの一つだろう。
 たいていは「器の<本質>とは、ガラスや樹脂などの<物質>にあるのではなく、その<虚ろな部分>にある。なぜなら液体を満たすという器の目的は何もない<虚>の存在によって叶えられるからだ。」とされ、その後に「これは建築についても同様である。なぜなら建築の目的である用途が果たされるのは、鉄やガラスやコンクリートといった<物質>の部分ではなく、それらによって囲まれた<虚ろな部分>だからだ。すなわち、建築の本質とは<空間>である。」と続き、時には「であるから、<物質>などは瑣末な問題であって、これに捉われては<建築の本質>を見失うことになる」と継がれることもある。
 「建築」とは、目に見える実体である「建築物」のことだと、世間一般と同じく信じてきたウブな学生にとっては、これはちょっとしたカルチャーショックだろう。こうした、少しアカデミックな香りのするインパクトによって「建築=空間」という教義は刷り込まれ、そしてめでたく建築学の入り口は開かれる、というわけである。

 この「建築=空間」の大変分かりやすいたとえ話には、やはり、それなりの説得力があって、「うん、その通り」と同意しそうにもなるけれど、僕などは「それはどうかな?」と思い留まってしまう。たとえが「器」なのがいけない。「だって、同じ100ml入る「器」でも、ペカペカのプラコップで呑む日本酒と、たとえば黄瀬戸の茶碗*でいただくそれとでは、酒呑みの幸福は全く違うものだろう?」と、同じく酒呑みである僕はすぐに気づくのだ。であれば、建築だって同じことだろう。「空間」が同じでも、それが<何で><どのように>できているかで、人の受ける感覚はまったく異なる。つまり、「建築」は「空間(の構成)」と「物質(の構築)」の、その両方でできているわけだ。いや、もっと正確に、そして若干小難しく言えば、建築とは「<空間という本質>と<存在という実質>が重なり合った状態」のことで、それらが調和したり、せめぎ合ったりする、その関係の操作が建築におけるデザイン行為だと、僕は考えているのである。
(*数年前、ニューヨーク在住のある著名なギャラリストの自宅で日本酒をいただいたことがある。酒自体、上等なものだったと思うけれど、未だにその味わいの記憶が鮮明なのは、その器の印象によるところが大きい。手にしっとりと馴染む肌理と重さの、淡い黄土色の黄瀬戸の茶碗だった。これが他の器だったなら、特別な記憶として今蘇り、こうして題材にすることもなかったろう)。

さて、「鉄のログハウス」はプラコップではなくて、いわば黄瀬戸の茶碗だ。100m2に満たない小さな住空間は、巨大なH型の重量鉄骨(h700mm×w350mm×t25mm×t16mm、最上層はh1000mm×w350mm×t32mm×t16mmに変化する)を井桁に組むことで覆われている。このログハウスの形式は、構造を内側に隠蔽してしまう「大壁」の建築とは反対に、構造材を幾重にも積層しそれを露わすことで物性を濃縮しているが、それによって黄瀬戸の茶碗と同様に、物質固有の気配が空間に(実は都市空間にも)溶かしこまれることになるのである。今回の「気配」とは、H型鋼特有の丸みを帯びた入隅や汗をかいた馬の肌のような黒皮の表面にあらわれる「あたたかみ」、あるいはその圧倒的な質量による「存在の確かさ」だろうか。この作品で僕が欲しいと願ったのは、そんな濃密な実質の力場が、透明な空間の本質を、おだやかに抱擁しているような様相だったのかもしれない。言い替えれば、この住宅は「鉄の器」なのだ。
「空間」一辺倒で洗練されてきたモダンハウスに、建築が持っていた「実質の力」を取り戻したい。H型鋼に特有の「強さと共にあるあたたかみ」に、僕はその願いを託したのである。


2016年 「LIXIL eye」 LIXIL