House in Araiyakushi / 新井薬師の家


都市の様相をそのまま引き取る
敷地周辺は戦前からの地割りも残る稠密な住商混合地域。ここに親子三世代が暮らすオフィス兼住宅を、というのが依頼だった。古くからの街らしく、明らかな都市軸もなく、軒を接するように犇めき合う既存建築群もまた、構造形式・規模・用途、それぞれ全て多種多様である。計画によらず、混乱のままに都市化が進展することで、特徴的で魅力的な平衡状態に収束したという、ある種、もっともこの国らしい都市の様相を呈しているようだ。
古典的な手法であれば、このような非-秩序的な敷地背景がある場合、秩序の表象としてモノリシックな「正」のボリュームを対比的に打ち立てるのかもしれない。しかしそれでは結局、非-秩序の一要素に回収されるだけで終わるだろうし、街の特徴という恩恵を捨て去ることにもなる。むしろここでは、積極的に非-秩序としての都市の様相をそのまま引き取り、新たな建築の質に転換してしまうべきではないかと考えた。
三世代の暮らしに加えてオフィスも要求されるこの住宅はそれなりの容積となるが、これをスクエアなボリュームとして既存都市に無理やり押し込むのとは反対に、周囲の隣家・道路・既存樹木・庭石・古井戸・お社、等々といった都市的要素の間に、「浸潤」させるように配置することにした。結果的に外形は都市の様相そのままに、複数の襞を持つアメーバ状の複雑なアウトラインを持つことになったが、それは一様ではない「人の暮らし」にとっては、むしろ好ましい「地形」と読みとることもできる。
この都市的な地形を「人の居場所」へと変換するために、我々が行った唯一の(と言っていいだろう)建築的操作は、いわば「負」の建築ボリュームである「矩形の中庭」を、その複雑な平面の中心に配することである。これによって、快適な採光・通風をもたらすのはもちろん、複数の襞は様々な生活に適した特徴ある諸室へと変わり、また、親子でありながらも自立した世帯である各家族間には適切な距離と間合いが確保されるが、矩形の中庭とそれへ向かう一律勾配の登り梁という内側からの「秩序」によって全体は統合されてもいる。
我々が行ったことを振り返ってみれば、通常であれば「<多様な都市>に、<単純な建築>を押し込み、さらにまたその内部に<居住の多様>性を作る」という冗長なプロセスを、「<多様な都市>を、そのまま<居住の多様>性と捉える」と単純化しただけなのかもしれないし、中庭という内向きの外部に向かって建築の内-外をひっくり返すことで都市と生活を接続しつつ、同時に、都市の無制限な「秩序化」という建築の方向をも、反転させようと試みたのかもしれない。
何れにしても、都市化の「果て」から始まる建築の「その先」が面白いと、思う。


「住宅特集」 2016年1月/新建築社


都市に浸潤する秩序 / アウトラインをもたない建ち方
ずっと、「秩序」は関心事の中心付近にある。
構造・構法・素材・エネルギーなど様々な側面の自然科学的な合理性を担保しながら、経済・法規・慣習・歴史文化などの社会学的合理性にも応えるという、極めて多元的な建築という存在を、さらに社会的恊働によって成立させる為には明晰な「秩序」は不可欠だ。
しかし、世界は森羅万象の事象が起こり続ける動的な環境である。ある時点で完全ではあっても、固定的な秩序はいずれその完結性故に機能しなくなる。完結的な秩序にある種の「冷たさ」を感じるのは、動的な存在である我々を許容しない、その根本的な性格に理由があるのだろう。
だからといって「無秩序」に向かうのは、先に書いたようにあり得ない。無秩序「風」な建築は可能だろうが、その裏では複雑で不健全な秩序が下支えしているだけなのだから。
求めているのは完結的ではない秩序である。「開いた秩序」あるいは「しなやかな秩序」と、我々はそれを呼んでいる。時間の変化を許容し、外部からの新たな参与を可能にしながらも、その統合性を失わないような秩序。
一つ、モデルとしているのは生物の秩序だ。それは常に外部環境や時間による変化を受容しながらも、その有機体としての統合性を保持し続けるまさに動的な秩序である。そしてそれは決して複雑怪奇な秩序ではなく、例えば144度ごとに枝葉を延ばす事で上下の重なりを避け日照を多く獲得するある種の植物のように(これを「葉序」という)、単純で効果的な原理なのである。
そんな「開いた秩序」を用いる事で、生きている世界の為の建築を実現していきたいと思っている。


「住宅特集」 2015年1月/新建築社